二人が小さな部屋でカレーライスを食べていた音なんて、誰も知らない。
ぺちゃくちゃととても美味しそうなその音を、二人は二度と鳴らせないのかも知れない。
白と黒の映像の中でふたつの影を見た。
影と影とが寄り添い、ふたつの影はひとつになる。
夜になるとその影がすべての景色を覆い尽くし、二人の影をひとつにさせてくれる。
名前を変えて生きるということは、あまりにも巨大な影のようだ。
闇の中に一人称を無くしてしまう。
だけど二人は確かにカレーライスを食べていた。僕や君と同じようにカレーライスを食べていた。
観終わって残るものはオウム真理教の話題ではない。
体験としての愛に自らの記憶を投影するだけだ。
記憶はスクリーンには映らない。
真っ暗闇のエンドクレジットはちょうど良かった。
視覚を無くして物思いに耽ることができる。
僕は好きな人とカレーライスを食べたい。
人生にハッピーエンドなんて無い。
最後は普通に死ぬだけだ。
ハッピーエンドは映画の中にある。
彼が浴びたあの眩い光は長い夜を経た朝みたい。
その朝は二人の影を離れ離れにさせてしまった。
あの日から暗くなってしまった東京は、二人にはちょうど良かったのかも知れない。
僕はカレーライスを食べたい。
ぺちゃくちゃと音を立てながら、映画の中にいた、どこにでもいる男女のように。
このまま死んでもいいと思うくらいに。
朝が来なくてもいいと思えるほどに。
――――――――――竹内道宏(インターネッティングライブ映像作家)




上映前後の登壇で、これほど緊張している監督に会ったことがない。
観客の質問に返事の言葉も出てこない。そして、言葉が不要な監督も
確かにいるのだと気づかされた。木村文洋監督は、徹底して映画に
本気で向かいあっているという空気を、全身から放っていた。
言葉がいらない木村監督であるからこそ、会話がつなぐ『愛のゆくえ(仮)』を
撮り得たのだ。日常的でない日常会話を本気で撮れたのだ。
――――――――――矢田部吉彦(東京国際映画祭 作品選定ディレクター)




最初に書かねばならない。これは映画だ。それ以上でも以下でもない。
そして映画としてはきわめて秀逸な作品だ。
過剰な説明はない。だからこそ観る側の視点で様々な表情を見せる。
社会と個。男と女。日常と非日常。希望と絶望。
薄暗い密室は社会への回路でもある。そしてエンディングのカットは冒頭のカットで
もある。すべてはループしている。繋がっている。無関係なものなど一つもない。
だから観終えて思う。今さらだけど思う。人は愚かだ。同じ過ちを何度も繰り返す。
でもだからこそ愛おしい。
――――――――――森達也(映画監督・作家




『愛のゆくえ(仮)』は、日本中の誰もが知る或る事件、記憶に新しい
或る出来事をモチーフにしている。
この題材の選び方にも、その描き方にも、おそらく賛否両論がある
ことだろう。
だが、この映画が持つ意味は、それだけではない。
愛をめぐる、愛のゆくえをめぐる、ささやかな、だが澄んだ深みを
帯びたメモランダム。
これみよがしな激情とも、いたずらに涙を引き寄せる悲哀とも異なる、
静かで強靭な愛の物語。
ここにあるのは、けっして特別な愛ではない。
だが、ありふれた愛とも、それはやはり違っている。
誰かを想うこと、互いを思いやること、それが愛の芯だとしたら、
この映画にはそれだけが映っている。
木村文洋は、この映画に出て来る男女を、彼と彼女がしてきたこと、
そして映画の中ですることを、肯定も否定もしていない。
彼は、ただひたすら二人を見つめる、見つめ続ける。
このようなかたちで「別れ」を描いた映画が、かつてあっただろうか?
――――――――――佐々木敦(批評家)




前川麻子という人は、鈴木いづみや中島葵とおなじように、自分のなかでは
伝説に等しい存在だった。知りあってしまえば日常の光景になってしまうのが
おそろしいが、それでもその作品に、その傷つきやすさに触れるとき、伝説が
いまだ継続していることを実感させられる。そう、前川麻子は生きていて、ここに
あらたな主演作が届けられた。これは事件であり、ひとりでも多くの方に歴史を
目撃してほしいと願う。
――――――――――高木登(演劇ユニット鵺的主宰・脚本家)




やはりカレーなんだなと、うなずきました。
冷蔵庫の残り物をありったけ、ぶち込んで煮詰めてコクを出す、あのシーンに妙に納得したのです。
17年目のカレーに。
で、花咲政之輔は、日本のザッパですね!
――――――――――七里圭(映画監督)




木村文洋と初対面のときからダラダラと飲んだくれていた。酔いがいい調子にまわりだしたころ「へばの」を切りつけにかかった。「オレが編集したらあのカットを切っていたね、印象が全然違うし、結論も出ないからそのほうがいいよ」といった。いま思えば、酔いに任せてひどく嫉妬して感想を伝えたが、木村はさらに酒を注いでくれた。
今回、「愛のゆくえ(仮)」試写で観終わった後に木村にうまく言えなかったけど、死亡後岡山で本人と確認された殺人犯の「おい!小池」でも似た展開になっただろうと、先日上野で演劇版「愛のゆくえ(仮)」を観てつよく思った。そう、木村の映画にはいつも「オレが編集したらこうなるのにな」と強く作品と関わりを持ちたくなる。映画を見た者に当事者意識を持たせるのだ。嫉妬を覚えてしまう。
転じて、木村は拙作を劇場で見てひどく気持ち悪くなり、途中抜け出してトイレに駆け込んで吐いたという。そうか、「愛のゆくえ(仮)」のあのシーンの印象かな。
6畳一間のアパート、現代日本のぎりぎりの生活、震災が内面に与えた影響、行き場のない中年の男女。普遍的な日本の縮図がここにある。ここで描かれているのは、理解不能なオウムの実行犯ではなく、たまたま昨日の夜、新宿駅ですれ違ったいちゃつく40代の男女に、意識をめぐらしてしまい、トイレに駆け込んでしまうようなストレートな情感だろうか。
――――――――――松林要樹(映画監督)




95年のオウム事件の時、私は住み込みで新聞配達の仕事をしていて、配達先にはオウムの青山総本部もあった。
その期間、毎日テレビをつけるとその場所が朝から晩まで延々放送されていて、私は1日2回そこに報道陣を掻き分け新聞を届けていた。
20歳だったあの夏、自分が世界の中心にいる錯覚に陥っていた。
その記憶の断片から17年。
私の17年間と彼らの17年間、何が違うのだろうか?
というようなことを『愛のゆくえ(仮)』を観ながら考えていた。
――――――――――佐々木誠(映像ディレクター・映画監督)




「人は死ぬ、絶対死ぬ、必ず死ぬ」という有名な麻原彰晃の言葉に応えたセリフがある。
オレにはそれが震災後に生きる私たちにとって大切な「希望」のコトバに思えてならなかった。
とにかく観て欲しい!多くの人が出会って欲しい!と祈るような気持ちでこの作品を推します。

――――――――――村上賢司(映画監督・テレビディレクター)





ほんとうに、どうしようもなく、目が離せない。
――――――――――赤ペン瀧川先生 (日テレ映画天国・新作情報コーナーナビゲーター)




ここで咲くひとひらの桜の花びらは、重みをうったえて止まない。
それはモノクロームの一夜を経た男女の、ようやくたどり着いたという安堵と、
よりいっそう遠くに進行しようとする果てしなさがあるからだ。

――――――――――小谷忠典(映画監督「LINE」 「100万回生きたねこ」が今冬公開)




取り返しのつかない後悔をする前に穏やかな毎日を慈しめたらいい。
愛を大切にする事、私らは軽んじているかもしれない

――――――――――赤澤ムック(演出家・女優 演劇版「愛のゆくえ(仮)」出演)