劇版「愛のゆくえ(仮)」のために前川麻子は二つの物語を書いた。
一つは演劇版に、もう一つはこうして映画版「愛のゆくえ(仮)」になった。
トライアルと呼ばれる演劇版「愛のゆくえ(仮)」の公開稽古で映画版の元になるシナリオのエチュードを見た。
それは元オウム真理教幹部、平田信と女の逃亡生活をモチーフにしたものだった。 “今日、私は17年ぶりに本名を名乗ります。そんな偽りの人生を今日で終わりにします”
その女が出頭した時のコメントがよみがえった。あのコメントを読んだとき、ただ悲しかった。17年という歳月に眩暈がした。
その後、このシナリオは演劇には採用されないという事を知った。
その場で映画にしたい、出演してくれと前川さん、寺十さんに交渉。了承してもらう。すぐに以前『へばの』という映画を六ヶ所村で撮った木村くんにシナリオを送り、監督をしてもらう事を依頼した。二・三日、考えさせてくれという返事だった。木村くんは100%断ると思っていた。彼が準備していた次回作が遅れに遅れていたからだ。それから二・三日して、木村くんから電話があった。“やらせて欲しい。やります。”

それから完成まであっという間だった。

撮影・プロデューサー/高橋和博







の時間の途方もなさに、しばしぼうっとした。
寄り添っていた女の存在を知って、救われた気がした。
信仰ではなく愛なのだと、なんの疑いも持たなかった。

それを美しいとは思わない。
汚れた床を擦り続けたボロ雑巾のように、惨めな姿だと思う。
互いしか縋るものがない閉ざされた愛が、ホンモノなのかもわからない。

だけど、私は、こんなふうに愛したい。
ただ自分の中の愛だけを信じて、生きたい。

主演・脚本/前川麻子







間は死ぬ、必ず死ぬ、絶対に死ぬ、死は避けられない―。

1995年。阪神大震災、地下鉄サリン事件の春―テレビから聴こえてきた麻原彰晃の声である。惨事をテレビで目撃し失語しながら―しかし正直、こう思った。なにを当たり前のことを何回も言っているんだ、と。15歳だった。
2011年。東日本大震災、福島第一原発事故。31歳になった。今度は分からない。
人間は必ず死ぬ、ただそれだけの、やはり当たり前のことが。

『愛のゆくえ(仮)』は今年2012年1月に、前川麻子さんから脚本を頂いたのが最初になる。
「愛のゆくえ」は前川さんが好きなリチャード・ブローディガンの小説。
前川さんはこの邦題を気に入っていて企画を書いては何度も “仮”を付し―それが別の正式タイトルに変えられ世に生み出されていくのを見送っていた。
だから私の解釈では『愛のゆくえ(仮)』とは、前川麻子さんにとって子宮内に宿る―まだ見ぬ子に呼びかけていた名前だった。
脚本を読みすぐに思い起こした平田信は―私にとって17年間交番のガラス越しにいた人であり、女性の存在は昨年まで知らなかった。
オウム真理教。
それは私にとって、未成年信者を助けようと奔走した坂本堤弁護士を妻子共に殺しカニの残骸と共に埋めた、というのが少年期の記憶だ。「子供だけは許して」という夫人の言葉、それは何度でも噛み締めた奥歯から蘇ってくる。その思いは多分いまも、根底では変わらない。
世界全体の前では、人間も魚介も微生物も、命は等価である。
私達が生きることはなにかの生命を、足を一歩踏み出すことから奪うことになる。
その中で何を選び、何を還すべきなのか。
恐らくまずは、そういったことだったのだろう。
しかし正直今も分からない。
17年間、部屋でじっと生きていた男のことを。彼と部屋とから逃げなかった女性のことを。
人はそれだけ長い間、何を待っていられるのだろうか。
なぜ自分は選ばれていま生きているのだろう―たった、それだけのことが。
やがて男が出頭した理由が東日本大震災での不条理を見て情けなくなったこと、という一言が振り払えなくなった。
そんな馬鹿な、そんなことで揺らがない生命観があるから17年耐えられたのだろう。
偽証だ―そう思った。

しかしまた分からなくなる。私はどうしていまこの部屋で生きているのか。
なぜ映画を選んでいるのか。
ひとは自分以外のひとを守りたいと考えるとき、なにかを選ぶ。
それは部屋であり仕事であり、法律であり、信仰であるかもしれない。
自分を守る以上の力を求めることは苦しいことだ。幻滅と絶望とを背にする。
しかしなぜ法律、信仰と立場は違えど―あるいは殺し、殺され、あるいは逃亡するのか。

私がまだ映画を信じるのは、そのことをもう一度ゼロの荒野から見つめたいからだ。
17年間ガラスの向こうにあった彼の部屋と、ただ昨年…世の無常をテレビで観ているしかない自分の部屋と―か細いものであっては一本の糸ではつながらないか、ただ、それだけを思った。

最後に。
『愛のゆくえ(仮)』。
(仮)が伏されたままのこの映画の名前は、大勢の人から“?”を頂くが、私は何故だかいま、この映画にとても似合っている気がしている。
ブローディガンをお腹の中に読んでいた前川さんに限ったことではなく…人は常にまだ見ぬ子、考え、思念を抱き、腹のなかで育てていると思う。しかしそれをなかなかそのまま、外に産み出すことは難しい。人は胎内で一度子供や思惑を産み、それを世界に産むかを考えるのだと思う。
この映画『愛のゆくえ(仮)』は、羊水に包まれたまま産み落とした子、という気がする。
私達がお腹のなかで抱いていた想像を、恐怖はあっても出来るだけそのままに。

映画の終盤―監督の私が意図せずに撮れたシーンがある。
男が部屋を一人の意思で出て、長く外界と人間との間を移動し、駅の地下で嘔吐する。
その嘔吐は人々に無視される。同情も軽蔑も注がれない。
しかし私は、とても好きなシーンだ。

私はあれは彼の“産声”である、といま思っている。

監督・脚本/木村文洋